江戸期の質屋は、古着屋、古道具屋。古鉄屋とともに「八品商」としてまとめられ、町奉行支配下にあったというから、つまりは、いまの古物商の仲間だったわけである。では、この頃、どれくらいの質屋があったかというと、中間の享保八年(1723)に質屋組合ができたときには、二七三一軒が営業していた。当時、江戸には一一〇万人の市民がいて、世界の都市のなかでも一番の人目を有する大都市であった。ところが、明和七年(1770)に二〇〇〇軒に制限されたあとは徐々に減りつづけ、未明の殤禾四年(1851)には一七五二軒になっていた。同じ頃、幕末の大阪には二回二〇軒の質屋があったというが、これは、商いの盛んな都市大阪だからこそともいえる。ついでにいえば、大坂の質屋の息子だったのが井原西鶴で、彼の晩年の代表的な浮世草子『日本永代蔵』『西鶴織留』『世間胸算川』は、いずれも質屋と質置主の人間棋様を活写したものである。